9月の月例会

(雨のち晴れ)




第99回月例会

 このところ、やっと気温も30度をちょっと上回るぐらいまで落ち着いてきたが、今月も台風15、16号が、太平洋高気圧の勢力が強くて小笠原の南方から沖縄、奄美大島から15号は、朝鮮半島へ向い、特に韓国では、死者が約100名ぐらいの被害に遭ったと報じており、16号は中国大陸へ向っている。
 そんな状況の中で行われた第99回目の月例会は、前夜から稲光と雷が激しく鳴り、そして、豪雨が一晩中降り続き、朝になっても、降り止まぬ、風こそ吹いていなかったが傘をさしていても下半身はずぶ濡れだった。
 出発からの雨は久しぶりで、前回は何時だったか思い出せないくらい稀な事だ。そんな訳で、どうなるかと心配していたが、雨は一向に治まりそうもなく、運良く天気の回復を期待して出発した。車のワイパーは、元気よく左右に雨粒をけ散らしていた。それでも下妻ミニゴルフクラブに着く頃には、霧雨になり、暫しホットした。
 ヘアウエーは所々に水溜りもあり、そして重く、いささかてこずったが、気温も9月にしては低く、これで雨さえ止めば最高の暑からず寒からずのもってこいの気候だった。
 その期待も午後から薄日もニヤニヤするほど、回復してどんどん青空が広がりそして快晴になり、空高くさわやかな、陽射しを満喫する1日になった。
 さる9月5日の役員会で、10月の月例会は、八広あずまゴルフ会が誕生してから記念すべき第100回目を迎えます。そこで、今は亡き前会長の石井さんの冠大会として、石井杯月例会として、盛大な賑やかな大会にしようと計画しています。
 また、11月は本コースでの月例会も決定しました。お知らせまで。
 今日は、大相撲秋場所の初日で、去年の夏場所で優勝して、表彰式で小泉首相に「感動した」といわしめた貴乃花が、その時のケガが思わしく回復せず、連続7場所休場して、横綱審議会から「いろいろ御託を並べられて」の出場が話題を呼び、皇太子、妃殿下のお二人も見物にきた。結果は貴乃花が高見盛を難なく「寄りきり」、ヒイキでもない私も今日ばかりは何としても「勝たせてやりたい」と、あわよくば「優勝もしてもらいたい」という、変なところで江戸っ子の判官びいきが出てきてしまった。優勝候補の横綱武藏丸は貴ノ浪に「送り出し」で敗れ、大関千代大海は土佐の海に、「はたき込み」で両者とも敗れるという番狂わせだった。明日から15日間が楽しみになってきた。

パター&パッティング

 往年の名プレーヤーのパッティングを思い浮かべると、その手に握られていたパターまでもが懐かしく思い出される。道具が豊富ではなかった時代、使い手は1本のパターを信頼して使い続け、ともに数々の物語を生み出した。

ベン・クレンショウ
 「全米でもっともパッティングが上手いプロ」と評されたのがベン・クレンショウ。
 左手甲とパターフェースを狙ったラインに向けて、やや押し気味にストロークするスタイルだ。ストロークの幅で距離感を、フィニッシュをピタリと決めることで方向性を生み出している。
 そのクレンショウが愛用するのがウイルソン社の1964年製L字パター。15歳の誕生日に父親から贈られたもので、以後「ジェントルベン」の愛称までつけられ、生涯の伴侶としている名器である。


ジャック・ニクラス

 右肩を下げた猫背な構えから、右ひじでストローク。ニクラスのスタイルは独特だった。
彼はプロ入り早々に「賭けパットの帝王」と呼ばれたジョージ・ローから「毎週続くツアーではヘッドが効いたパターのほうが、感覚を保てる」とアドバイスされ、ロー自身がデザインしたショートブレードのL字型を使うようになる。
ここ一番で無類の強さを誇り20世紀最高のゴルファーと賞されるニクラス。そんなプレーヤーから信頼されたモデルだけに、スポーツマンはクラシックパターの中でももっとも高値が付けられた。

ウォルター・トラビス

 35歳でゴルフを始め4年後の1900年、そして01、03年と全米アマを制したトラビスは、余勢を駆って翌04年英国に渡り、外国人として初めて全英アマをも手中にした。
 そのとき使用したのが、GE社の技師A.W.ナイトが設計した、当時には珍しいセンターシャフトのアルミ製のこのモデル。トラビスが魔術師のようにあまりに入れまくったことから、英国では負けた腹いせに英国内での使用を禁止したという逸話付きのパターである。

セベ・バレステロス
 ウォルター・トラビスとセベの共通点、それはGE(ゼネラルエレクトリック)社の技師が設計したパターを使って英国で優勝したことだ。
 セベは1979年の全英オープンをはじめとするメジャー5勝をあげている。そのすべてで使用していたのがピンのアンサーモデルだ。中でも初期の66年頃に作られたスコッツデールモデルがお気に入りだった。
曲げた両ひじとグリップで作られる3角形を崩さずストロークすることで、このグースネックのヘッドを見事なタッチで使いこなしていた。

レイ・フロイド
 パーティボーイとまでいわれた遊び人フロイドが、1976年のマスターズで最高のゴルフを演じて優勝したときは、人は「レイの安定したパッティングはツアーでも最高の部類に入る」と評した。
フェースバランスのヘッドに長いシャフトを付け、アップライトにアドレスしたフロイド。
 その構えはまるで歩くのと同じ、どこにも無理がない自然な姿勢だったし、垂直に近いストローク軌道はフェースバランスの機能を引き出すには最適だったといえる。

ジョニー・ミラー

 長いPGAツアーの歴史の中で「神がかりなゴルフ」をしたプロといえば、1970年代の中頃のジョニー・ミラーをおいて他にいないだろう。
 とりわけ「タップ式」で打つ彼のパッティングは、グリーンに乗ればどこからでも入るのではといわれたほどだった。
 そんなミラーの右腕はプレアクシネット社製の「Bulls Eye」と刻印されたキャッシュインタイプ。黄銅製のヘッドは打球感が柔らかく、芯で打ちやすいことからビギナーにも愛用されたモデルだった。

パターをグリーン周りで使うことが勝者の条件

 ウィリー・パークJrもまた、マッセルバラが生んだパターの名手だった。父パークは1860年の第1回全英オープンチャンピオン。その息子ジュニアは「パークスパテントロフター」という凹面のフェースのアイアンを作るなどなかなかのアイデアマンだった。「パット名手はどんなゲームをも制する」という言葉を残し、そういうだけに自らもパターの名手と称された。1887、89年と2度もオープンに勝っている。
 パークJrはゴルフ生涯の伴侶として活躍してくれたパターに「オールドポーキー」という名をつけた。ここ一番でもっとも頼りになるヤツ、といった意味だ。球聖ボビー・ジョーンズが愛用したパターの裏面には「カラミティジェーン」(一発で仕留める姐御)と刻印してあった。
 ファーガソンもパークJrも、そして全英アマ初の外国人チャンプとなった米国人ウォルター・トラビスも、共通していることは、グリーン周りから徹底してパターを使用し、王者の座を射止めたことだ。「始めにパターありき」を実践してみせた、歴史を飾るゴルファーだった。
 さて、20世紀に入り、1915年から30年にかけて活躍したのが、米国のウォルター・ヘーゲンとボビー・ジョーンズ。トラビスが全英アマ初の外国人チャンプならば、ヘーゲンもまた初の全英オープン外国人勝者(1922年)である。ヘーゲンはL字型を駆使した名手でスタンスは狭く、左足前にボールを置いて小さなテークバックからパチンとボールを打つスタイルだった。
 特にヘーゲンが注目されたのは、ロングパットの打ち方だった。「ストローク中は絶対に体を動かすな」というセオリーを無視して、距離に応じてひざを柔らかく使ったからだ。ヘーゲンはひざを動かすことによって、体が硬直するのを防ぎ、他のスウィング同様、体にリズム感を持たせたのだった。
 一方、ボビー・ジョーンズはフラットなパターを使い、ヘーゲンのようにボールに近づかないで、左ひじと左手首を目標に向けて、大きくてゆっくりしたテークバックからストロークすることを心掛けていた。そしてこういっていた。「パットは右手でストロークするものだ」 時代によって、そしてプレーヤーによって道具とスタイルが大きく変わるところが、おもしろい。
 ゴルフの起源には諸説あり、いつ始められたのかは定かではない。しかし、スコットランドの「地面に置いた石を打ち、穴に入れるゲーム」がゴルフの始まりとすると、少なくとも500年以上の歴史があることになり、ゴルフクラブのルーツはパターと同様の性格を持ったもの、といえるわけだ。「始めにパターありき」である。
 ゴルフという文字が歴史に初めて登場したのは1457年のこと。ジェームスII世の時代、スコットランド国会議事録にゴルフ禁止令があり「Fute Ball And Golfe」(フットボールとゴルフ)という文字が明記されていた。
 当時は芝が平らな場所を選び、そこを今日でいうグリーンとしていた。だがパッティンググリーンという意味の言葉が初めて登場するのは1744年、リースのオナラブルカンパニー・オブ・エジンバラゴルファーズで草案されたルール第4条で「フェアグリーン」と表されている。
 そして10年後の1754年、セントアンドリュースで成文化された最初の統一ルールの第7、9、12条に「ホール」という文字を見ることができる。この時代、ティショットとパッティングは同一の場所で行われ、パターは「グリーンパター」と呼ばれていた。
 そのころのパターはプレーイングウッド(ドライバーやスプーン)と同じ「ロングノーズドスケアーヘッド」と呼ばれる木製の三日月型状のヘッドで、芝が長かったこともあり、10度近くのロフトがついていた。
19世紀中頃にガタパーチャボールが発明される。それまでのフェザーボールと違って硬くて重いために、パターにも鉄製ヘッドが登場した。中でもボブ・ファーガソンの「マッセルバラアイアン」が有名だ。
 ファーガソンはマッセルバラで生まれ、8歳からキャディとしてゴルフに身を染め、1880年、81年、82年と3年連続して全英オープンのチャンピオンとなった大選手だった。木製ヘッドのパターを使う選手が多い中で、いち早くアイアンヘッドのパターを使用し、グリーン上のみならず、アンジュレーションのきついグリーン周りからでも、縦横無尽にパターを操った。ウッドパターこそ美学としていたプロ達も、あまりの見事さにファーガソンのパターに「マッセルバラアイアン」と敬意を表したのだった。
 海を渡ってアメリカのテキサスは強風の名所。そこでもグリーン周りから、風に左右されないようパターで転がす打ち方が多用された。名付けて「テキサスウェッジ」。ファーガソンと相通じるものがある。