7月の月例会





 今月10日(水)夜から11日未明にかけて東日本に影響のある大型の台風が、梅雨前線をシゲキして各地に雨を降らし、特に岐阜県下では大垣市周辺に大雨が降り、死者行方不明者の出る被害があり、東京近辺でも、各河川の中には危険水位を越えるところもあった。
 東北地方では、福島県の阿武隈川水系、宮城県の北上川、山形県の最上川など、幾多の1級河川が、危険水位にたっした。今回の台風6号は千葉県を縦断するという東日本の各地域にとっては最悪のコースをたどり被害甚大だった。
 危ぶまれた月例会も、下妻ゴルフクラブも、なんら影響なく、気温は連日30度を越える猛暑の真夏日が続き、おまけに追いかけるように台風7号が、沖縄の南方に控えており、当日には関東近辺に接近するだろうという天気予報には、ちょっと心配しましたが、運良く進行が遅く奄美大島近辺を通過ということで、何とかことなきをえた。
 明けて当日の朝は、天気こそ晴れていたが台風7号の余波か風が時々10mを越え、平均6、7mの強風だった。最低気温も28度を越え、最高気温は台風通過後、毎日記録更新という33.8度にたっしていた。
 先月同様に、日差しが強く柔肌は真赤に焼け、痛みさえ感じるありさまだった。風が強かったので木陰に来るとホットした。水分だけはドンドン補給して凌いだ。午後は、尚一層苦しめられた。こういう時期には、間違ってもプレーするものではないと、つくづく反省し、事故もなく終了出来たことに感謝します。


ゴルフの歴史

 ゴルフは昔スコットランドの羊飼いの少年たちが、先の曲がった棒切れで小石を打って地面の穴ぼこに入れて遊んだのが最初だと言われています。いわば「ゴルフの原形」というわけでしょう。しかしこれには異説があってこのゲームはオランダから渡来したものであるとか、フランスで行われたゲームと同じであるとか、現在でも論議されています。
 いずれにしても、15世紀にはスコットランドでゴルフが盛んだったことは事実のようです。というのは、1457年に政府が国民にゴルフ禁止令を出したほどだったからです。当時は戦争となれば、弓矢での戦いでしたが、その訓練がおろそかになるほど、人々はゴルフに夢中になっていたということでしょう。その後も二回ほど禁止令が出されましたが、世の中が平和になった16世紀はじめには、ついに国王自らゴルフをするようになりました。
 ゴルフはこうしてスコットランドの東部から広まり、やがてイングランドでも盛んになります。そして18世紀前半には、ゴルフ愛好者のグループが最初のゴルフ倶楽部を結成しました。同時にこの頃すでにクラブとボールがアメリカに輸出されていました。
 アメリカでも当時ゴルフをする人がいたわけですが、初めてゴルフ倶楽部が結成されたのは1888年でした。そして、その翌年には米国ゴルフ協会が創立されました。初期は金持ちのスポーツでしたが、パブリックコースや自治体が造ったゴルフコースが増えるに連れて誰でもできるゲームとなり、今やアメリカを代表するスポーツにまでなっています。
 
 我が国では、大政奉還の翌年、まだ血なまぐさい革命の熱が残る中で、明治新政府が足場を固めようと必死になっていた1868年のこと。一人のイギリス人が開港間もない春の神戸の街へ降り立ちました。彼の名はアーサー・ヘスケス・グルーム、当時21歳。日本で商売をする兄を手伝うため日本にやってきました。翌明治2年、日本人女性と結婚し、茶の取り引きをしていましたが、妻との間にもうけた五男は生まれつき言葉が不自由でした。彼は趣味の狩猟で殺生をしていた応報ではないかと考え、以来狩猟をやめ、かわりに東西およそ15キロに渡って神戸の街を抱きかかえるように山が連なり、少し上れば神戸の街を一望でき、夏は格好の避暑地。グルーム氏は六甲を大変気に入って、そこに初めて家を建てました。神戸の街を見下ろす六甲の山々を開発して、人々の役に立とうと考えたのです。
 「そうだ! 日本の、この六甲山にゴルフ場を作ろう!」起伏の激しい山の中にゴルフ場を作る作業は、困難を極めました。
 六甲山は標高931m。そこを尋ねてきた友人との雑談の中で、本国を懐かしみ、ゴルフでもやりたいものだという話が出て、グルーム氏はぴんときたのです。ようやく日本が近代国家への道を歩みだしたばかりの頃、すべては人間の力だけで行われたのです。イギリス人達はここへ立ち寄るとき、必ずスコップを持っていって、少しずつゴルフ場を仕上げていったといいます。
 ようやく4ホールが完成したのが1901年。日本で初めてゴルフがプレーされた記念すべき年となりました。その後コースは9ホールになり、1903年日本で最初のゴルフ倶楽部、「神戸ゴルフ倶楽部」が誕生したのです。翌年には18ホールが完成し、神戸の外国人ゴルファー達は駕籠に乗り、2時間かけて六甲の山を登りました。お客が外国人だと、4人がかりで駕籠を担いだそうで、毎日100人以上の人足が客待ちをしたといいます。ちなみに、日本で最初のキャディーは“
Bullet Head 留吉”といって、なんとグルーム氏ご贔屓の駕籠屋さんでした。 芝の付きが悪い土壌で、開場当時グリーンは砂を固めたもので、最初のゴルフコースでした。
 以後、特定の階層の人々に親しまれていましたが、あまり発展しませんでした。
 現在はベントグリーンですが、かつてを知る人の中には、かつての趣がなくなったという方もいるそうです。クラブハウスは神戸・北野町に残る異人館を思わせるたたずまいで、日本のゴルフの歴史を今に伝えています。
 我が国のゴルフが爆発的なブームになったのは第二次世界大戦後でした。そのきっかけとなったのは1957年に霞ヶ関カンツリー倶楽部で行われたカナダカップ(現ワールドカップ)でした。我が国代表の中村寅吉・小野光一両プロが米・英・豪・南アなどの強豪を抑え、団体・個人戦ともに優勝を果たしたのです。
 これは戦後、古橋・橋爪両選手が水泳で遂げた偉業に匹敵するものでした。
 こうして我が国ではようやくゴルフの大衆化が始まりました。しかもその発展はまことに急速で、その規模は米英に並ぶ勢いです。
 ゴルフほど多くの人々に親しまれているスポーツはありません。それは年齢を超え、技術や体力の差を越えて老若男女、誰でも同じフィールドで楽しむことができる「生涯スポーツ」だからです。
 広大なコースでボールを思い切り打つあの壮快感は、一度味わったらもう決して忘れることができません。きれいな空気のもとで体を思い切り動かすことがどれほど健康的であるか、あえて言う必要もないでしょう。
 現在のコースは18ホールで、3790ヤード・パー61。10本のクラブでラウンドします。パー61と聞いてぎょっとするかも知れません。しかし、これぞゴルフの原点。イギリスの古いリンクスをラウンドした人が、一日に四季があるといわれる自然の中では「パーが大きな意味をなさないことを感じた」といいますが、自然の全てを受け入れるゴルフは、そもそもスコアではなくマッチプレーで争われていました。パーはあくまで目安。そんなゴルフの原点を思い起こさせる、自然をそのままに生かしたレイアウトで、アップダウンが激しく非常に難しいコースと言われています。しかし、アウトからインへ折り返し近辺では、神戸の街を一望する、素晴らしい眺めを楽しめるそうです。
 まさに日本におけるゴルフの聖地、『六甲』 ゴルフが初めて、日本でプレーされてから100年、伝統ある素晴らしいゴルフコースを、21世紀最初の
The Openを、そして!心おきなく楽しみたいと思っています。!