11月の月例会

平成14年11月10日 (日) 快晴

(第101回)





 今月に入るといきなり気温が下がり冬が来たようです。先月は夏日が12日もあるという最高気温を記録したか思えば、何と季節の変わりが激しいのでしょうか。日本の秋は、世界で一番うつくして暮らしやすく、四季の中でも充実して落ち着きのある時期で、万人が読書、スポーツ、旅行、美術鑑賞と秋の夜長を満喫し一家団らんにはもってこいの何をおこなってもいい時期です。
 今回は、昨夜来の強風が一晩中吹いていて明け方近くなって、少しずつ静まり陽が上がるに連れて気温も上がり、出発の時間(午前7時30分)になると、嘘のように風も止み、温かくなり、ゴルフ場の迎えのバスの中は、朝日を浴びて、まるで温室の中のようで、次第に汗ばむほどになり、道路も紅葉の季節だというのにスイスイと気持よく走れ渋滞するところもなく、ある者は窓越しの秋本番の車窓を眺め去り行く最後の紅葉を楽しみ、また、ゴルフ談義や痴話ばなしと思い々に時間を過ごしゴルフ場に到着した。
 春の若葉、秋の紅葉と別々の景色を楽しませてもらい、尚且つ、これからゴルフをまでたのしめるなんて、こんなシヤワセ最高、最高。
 空気は澄み雲はなく風もなく、空は秋晴れ、これで上手く打てないはずがないと思いきや、是が人生、そんなに何もかも上手く行かないところが面白い、神のみぞ知る!!!。
 1日のんびりゴルフを楽しみ、夕方地元に帰り仲間と一緒にパーティで上機嫌になり、家に帰り布団に入ればバタングーと朝まで白河夜舟。







笠間稲荷

 
笠間稲荷の菊祭りは日本でもっとも古い菊の祭典で、明治41年(1908年)、先々代宮司の塙嘉一郎が、日露の戦没によって荒廃した人心を和め匡救する一助として、神社に農園部を開園して始めたものです。永い歴史を重ね、今年で第95回となります。
 境内各所には立ち菊、懸崖菊、千輪咲き、盆栽菊など五千鉢の菊花がところ狭しと展示され、芳しい香りとともに色とりどりの花がご参拝の方々の目を楽しませ、心を和ませてくれます。
 また今回は菊祭り期間の内、10月25日(金)〜11月17日(日)まで、野口雨情生誕120年を記念して、「唱歌・童謡の世界」と題して菊人形展を開催いたします。菊の香りとともにノスタルジックなひと時を過ごしてはいかがでしょうか。
 さらに同じく境内にある笠間稲荷美術館では、菊祭り期間中にあわせて秋の特別展「雪村展」を開催いたします。常陸の国(茨城県)の太田に生まれ、戦国の乱世にあって東国(関東〜東北)を舞台に活躍した画家で、国際的にも評価され今日では西の雪舟に比肩すべき大画家と称されています。ぜひとも色彩を超越した、墨色豊かなモノクロームの世界をご堪能ください。
 創建は白雉年間(650〜654)まで遡るといわれ、現在でも五穀豊穣、商売繁盛を願い、年間3百万人以上の参拝客が訪れます。江戸時代末期の建築である本殿側面の彫刻は、江戸で流行していた最先端の技法を伝えていてとても見事です。


            笠間稲荷神社

 

     菊人形      満開のツツジ
京都の伏見稲荷、佐賀の祐徳稲荷とともに日本三大稲荷の一つに数えられる笠間稲荷神社かあり、その門前町として発展した。また、北関東では栃木の益子と並ぶ陶芸の町としても知られ、100以上もの窯元が点在する。
 また、笠間市街を見下ろす『つつじ公園』では25種35,000株のつつじが植えられていて、毎年『笠間ツツジまつり』が開催される。

 大町から登山口を入って約150メートルの竹垣に囲まれた一画、そこは忠臣蔵で知られる大石内蔵助の祖父で笠間藩家老だった大石良欽(よしかね)の邸跡です。
浅野氏は赤穂転封の前は笠間の藩主で、赤穂へ移って57年後に浪士の討ち入り事件が起こります。赤穂義士の中で、吉田忠左衛門、小野寺十内、堀弥兵衛は笠間藩時代に生まれ、大高・三村・勝田など何人かは笠間で仕官したといわれています。
 浅野氏が笠間を領したのは、長重、長直(長矩の祖父)の2代で共に城下町の整備に努めました。又長直は佐白山頂の藩庁まで藩士が往復する困苦を配慮して山麓(今、公園になっている)に下屋敷を造り、ここで政務を執られましたが、白壁の壮麗なものでしたので幕府から新城作りと誤解され、これが赤穂への国替えの一因ともいわれています。
 笠間城は、文暦元年佐白山頂につくられた。天守閣、八幡台、穴が崎の二つの櫓等があった。
 江戸時代に入ると浅野氏(後に赤穂に移封)牧野氏等の居城となった。山城。駐車場(千人溜跡)に車を止め、大手櫓跡、空掘、三の曲輪跡、帯曲跡、を経て石段を上がると、玄関門跡に出る。そこは本丸広場。売店があったが閉まっていた。穴が崎櫓跡、八幡櫓跡は遺構が比較的よく残る。東櫓門跡から坂をのぼると左手に天主郭跡の碑がある。さらに急な石段を登ると殿主曲輪跡にでる。そこには佐志能神社がある。ここまで結構な登り。しかし天守閣も櫓も見当たらない。明治13年廃城の際、八幡櫓が原型のまま真浄寺に移されていた。
 真浄寺は城跡を下ってメイン通りを右折し、400〜500メートル先のガソリンスタンドの1軒手前を右折し、少しいったところにある。この道は非常に狭いのでうっかりすると見落とす。突き当たりの石段を上がったところに櫓がある。現在は「七面堂」となっている。茨城県指定文化財。説明文に旧笠間城の八幡櫓とある。
 笠間稲荷神社の御神酒として代々御用命にあずかっている銘酒「松禄」。一本気なまでに伝来の醸造を守り、自然の恵みと南部杠氏によって生み出された銘酒は甘・辛・酸・苦・渋の五味がほどよく調和した逸品です。また当社の酒蔵は柱1本みても、ふるき良き日本の文化を感じることができます。そのような雰囲気の中で [笠間の新名所] 酒造を見て、試飲ができます。
 古い歴史に育まれてきた伝統に、新たな技法が加わり伝統的な工芸品から美術品にいたるまで、窯業団地をはじめ、それぞれの陶房群から個性的で創造性豊かな作品が生まれます。陶炎祭(ひまつり)に象徴される笠間焼は、日用雑貨をはじめ、装飾品、オブジェ、照明器具、時計、陶板などなど、全国でも珍しい産地として脚光を浴びております。
 江戸安永年間に窯煙をあげた笠間焼は二百数十年の歴史を有し幾多の困難を乗り越え素朴な味わいと温もりを今に伝えています。
 世界的ヒット曲『上を向いて歩こう』で国民的スターとなった坂本九さんは、笠間をこよなく愛していた。笠間市笠間は、母親いく江さんの故郷。太平洋戦争の終わりごろ、川崎市に住んでいた坂本さん一家は笠間に疎開していた。2歳からの約4年間暮らした赤いトタン屋根の家は、今も残る。
 後に、坂本さんは16歳で歌手デビュー。20歳ごろには大スターになっていたが、笠間とのつながりは途切れることがなかった。毎年、節分にはいく江さんとともに笠間稲荷を訪れ、年男として豆まきをした。笠間高校の講堂でコンサートをしたこともある。昭和46年、女優の柏木由紀子さんとの結婚式も笠間稲荷で行われ、参道は全国から詰めかけたファンやマスコミで埋め尽くされたという。
 笠間には、叔父の大島憲さんや疎開時代ともに遊んだ友人など、素顔のままの坂本さんを知る人が多い。市内には、坂本さんの横顔が刻まれた歌碑が立ち、市立笠間幼稚園に寄贈したピアノは今もメロディーを奏で、スポーツカーミュージアム日動には愛車が展示されている。笠間を愛し、笠間の人々に愛された坂本さんの思い出は、今もまちのあちらこちらに息づいている。






親鸞聖人(浄土真宗の開祖)

 
浄土真宗の開祖親鸞聖人は1173〜1262年までの90年余りの生涯を布教活動に費やしてきました。親鸞は、貧しい農民層に対し、現実の苦しみから救いを求める民衆に「何よりも阿弥陀仏の救いを信じて、念仏すべきだ」と教えました。
教えのひとつに悪人正機の教えがあります。「歎異抄(たんにしょう)」に「煩悩のわれは、いづれの行いにても生死をはなるることあるべからずと、あわれみたまいて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他人をたのみたてまつる悪人も、住生の正因なり、よって、善人だにこそ往生すれ、まして悪人をや。」悪人とは、自分の力では、どうすることもできない下級の農民層です。これらの人々は自分で修業できないから、阿弥陀仏を唯一心に念仏を唱名すれば、仏の救済を受けることができると説きました。
「教行信証」は稲田の草庵で書き始めたと言われています。それゆえ、笠間には親鸞伝説が多くあります。弁円との対決「板敷山の法難」は有名な話です。

山下りん日本最初の女流洋画家)

 
山下りんは、1857年(安政4年)5月25日、笠間に生まれ、兄と弟の三人兄弟でした。りんが7歳の時に父が亡くなり、寂しさを乗り越えるためか絵を描く日々が続きました。
幼い頃から画家を目指し、家族の反対を押し切り上京したのが16歳の時です。
明治10年日本最初の工部美術学校へ入学しましたが、学校の方針に不満を覚え、同13年退学しています。学生時代にロシア正教宣教師ニコライの洗礼を受け入信し、ロシアへ留学しました。明治16年に帰国した後、イコン画家(聖画家)として明治から大正にかけて建てられた聖堂のために多くのイコン画を描き続けました。大正7年に故郷、笠間に戻りましたが、ロシア革命の影響で、帰郷後、一切絵筆をとることはありませんでした。イコン画に生涯を捧げ、独身を通したりんは晩年好きな酒を楽しみ、悠々自適な生活を過ごしたようです。

木村武山(仏画の第一人者)

 木村武山は、明治9年笠間町箱田の旧笠間藩士木村信義・春の長男として生まれました。笠間小学校を卒業すると、東京の開成中学校に入りました。中学の2年を終えた明治25年に東京美術学校の日本画科に入学し、同29年卒業すると橋本雅邦の門に入り、狩野派の奥義を学びました。
明治39年に岡倉天心、横山大観ら日本美術院首脳部と共に茨城県の北端、五浦海岸に移り、文展に「阿房却火(あぼうごうか)」「孔雀明王(くじゃくみょうおう)」などを出品し、みごと入賞に輝き、日本画家の第一人者の地位を築きました。
武山は「仏画の武山」と称されるほど、仏画に優れていました。高野山金堂壁画を初め、晩年には大日堂の壁画に情熱を捧げ、昭和12年に脳溢血で倒れた後も、左手で描き続けましたが、完成を見ずに67歳で死去しました。

 高野公男(名曲を生んだ作詞家)

 
「別れの一本杉」、御存じ春日八郎のヒット曲です。その作詞者である高野公男はこの笠間の出身です。笠間郊外にあるのどかな田園風景、その中に一本の素朴な杉の木、絵になりますね。



 


笠間の夜


筑波の山々に真紅の夕日が落ちるころ、笠間に
情緒豊かな夜のとばりが訪れます。宴は美人の
お相手で、笠間女はやさしさいっぱい。
心意気が違い、芸が違う。
 「いつものカラオケとバカ騒ぎだけじゃつまらない」笠間の夜の楽しみはそんなあなたをきっと満足させてくれるはず。粋で陽気な芸者さんたちと、しっとりとまたにぎやかな宴を楽しみましょう。
 現在笠間にいる約50人の芸者さんたちは、17件ある置屋さんにそれぞれ所属しています。芸者さんをお座敷に呼びたい時、まずは笠間の旅館・料亭へ頼んで見番(事務所)へ連絡してもらい、そして見番を通して置屋の芸者さんをお願いするというシステムになっている。

(営業時間:AM10:00〜PM10:00)
花代(平成14年11月現在)
芸妓 1人2時間(120分一座敷)14,580(6500×2時間、
    約束料500円、税金(消費税5%+特別地方消費税3%)

    追加は1時間毎に7020円(6500円+税金