12月の月例会

(雨のち曇)

 


 

 早いもので今年も3週間もすると新年を迎える。収めの師走です。今週でプロゴルファーにはゴルフシーズン最後の週で、ゴルフ・日本シリーズJTカップが行われた。初日(12月5日)、2日目は10月下旬の陽気でだったが、3日、4日目は連日最高気温がこの冬の最低を更新するほど冷え込みましたが、終わってみると優勝した片山晋呉は19アンダーとブッチギリの優勝だった。
 当会も、前日から降っていた雨も運良く上がり朝の気温こそ最低気温だったが、予定通りの時間に集合して下妻ミニゴルフ場へ4台の車で、雨こそ落ちてこない曇空を恨めしげに眺めながら出発した。
 今日のように、気温(最低気温2度、最高気温7.5度)が低いとゴルフをするには、いささか厳し過ぎる。それでも全員頑張って、いつも通りの好成績で終了した。
 これで、当会としては来年の3月までは、シーズンオフちょっと寂しいが、鋭気を養って平成14年度を優秀の美で飾りたい。


日本シリーズ






筑波山



ケーブルカーと梅林


筑波山全景


 標高は876m(女体山)にすぎないが、関東平野のまん中にポツンとあるため目立つ。遠くから見ると、長く裾野を引いた山容は秀麗で美しく、山頂からの展望も良い。山頂は男体山(なんたいさん)と女体山(にょたいさん)に分かれ、男体山にはイザナギノミコト、女体山にはイザナミノミコトが祭られており、夫婦和合や縁結びに霊験ある山として知られている。
 筑波山ケーブルカーは、筑波山神社左側の宮脇駅から男体山山頂近くの筑波山頂駅(1,600m)までを結んでいます。
 全長の3分の1がカーブしており、途中118mのトンネルや巨岩・巨木の中を走り抜ける、変化に富んだコースを楽しめます。
 西の峰男体山(870m)には気象観測所や山頂ひとめぐり自然研究路があり、見学、研究散歩等ができます。また山頂の南下に連歌岳があります。日本武尊と火焼の翁との間に交された「新治筑波を過ぎて云々」の歌は連歌の始まりと言われています

 
ケーブルカーの筑波山頂駅前にある12角形の建物です。
約17分間で1回転し、座ったまま関東平野を展望できます。1F売店、2F展望食堂、3F屋上展望台
 
 約1200年前、名僧徳一大師によって発見されたと伝えられる霊水です。万病に効く不思議な水といわれています。筑波山男体山頂付近(ケーブルカー山頂駅より5分程)にあります。
 
 江戸時代の香具師永井兵助が、あの有名な「ガマの油売り口上」を考え出したところといわれます。商売繁盛の祈願をする人も多いようです。 間宮林蔵が13才のとき、この岩屋に祈願して世界的探検の大事業を成就したといわれています。今でも大志をいだく青少年の祈願者が多いところです。 巨大な2つの岩石から成る奇岩です。岩の形がちょうど2隻の巨船が前後して出入りする姿に似ているところから、このような名前がついたといわれています。
 筑波山ロープウェイは、つつじヶ丘駐車場のつつじヶ丘駅と女体山山頂近くの女体山駅を結んでいます。
 全長1,296m、高低差298mのロープウェイからは、霞ケ浦や筑波研究学園都市、雄大な関東平野が一望できます。
 昔神様に一夜の宿を頼まれ、断った富士山は雪積もる淋しい山となり、迎えた筑波山は四季賑わう山になったといいます。
女体山は東の峰(876m)です。
 ロープウェイ発着場の広々としたくつろげるレストランです。おみやげコーナーでは地元名産品のうどん・そば・地酒等を販売しています。

 
女体山から800mほど下ったところにあります。別名を鳥居岩。
昔、さすがの弁慶も7回逆戻りしたといわれる、見るからに落ちてきそうな大きな岩をくぐる道です。

 
常陸風土記によると、筑波地方は、昔、紀の国といっていました。崇神天皇の御世に、朝廷からツクハコノミコトが紀の国の国造(県知事のようなもの)として任命されてきました。
そのとき、ツクハコノミコトは「自分の名をこの国につけて後世に伝えよ」と言って、すぐにもとの名称を改め、それから筑波と呼ぶようになったと言われています。
 昔、ミヤオ(祖先)ノミコトが多くの御子の神たちのところを巡って、駿河の国の富士の山に着くと、日が暮れてしまいました。そこで一晩泊まりたいと富士の神に頼みました。しかし、富士の神は、「今日は、収穫した新穀を神に供える、新嘗祭の最中で、家中のものが潔斎して家にこもっています。今日のところは残念ながら泊めるわけにはいきません」と答えました。それを聞いたミオヤノミコトは恨み泣き、ののしって「私はお前の親なのに、どうして泊めようと思わないのだ。これから、お前が住んでいる山は、お前が生きているかぎり、冬も夏も雪が降り、霜がおり、寒さがつぎつぎと襲って、人々は登ることができず、酒も、食べ物もあげる者がないであろう」と言いました。
 今度は、筑波の山に登って、また宿を請いました。その時、筑波の神は、「今夜は、新嘗祭をしていますが、どうぞ泊まってください」と答え、食べ物や飲み物を出し、うやうやしく拝み、つつしんで手厚く奉仕しました。ミオヤノミコトは晴ればれと歓びました。
 このことがあって富士山はいつも雪が降って人々が登ることができません。一方、筑波山は人々が行き集い、歌い舞い、飲んだり食べたり、今に至るまで絶えないのです。
 由来は、徳川家康の時代にさかのぼります。家康は江戸城を築いた時、筑波山が江戸城にとって鬼門にあたる方角にあるのに気付き、筑波山中にあった中禅寺を、徳川家の祈願所と定めました。
そして、大坂冬の陣、夏の陣の時には、筑波山中禅寺の住職、光誉上人を、戦勝祈願のため徳川軍に従軍させました。
 その時、光誉上人が怪我人の手当に用いたのが、ガマの油です。これがとてもよく効いて評判になりましたので、光誉上人はガマ上人とも呼ばれるようになりました。
家康は光誉上人の働きを喜んで、江戸の芝白金に寺をたて、上人を住まわせました。
その後、代々の住職はみな江戸に住んで、筑波山には院代をおいて寺務をとらせました。
こうして光誉上人の働きによって、江戸時代、筑波山は大いに栄えるようになりました。
 ガマの油が一層有名になったのは、ガマの油売りの口上からです。油売りの口上をはじめたのは、山麓の新治村、永井兵助という男だと伝えられます。兵助は江戸でこの口上を使ってガマの油を売って大層もうけたそうです。
ガマの油は、もともと中国から伝わった漢方薬で、ガマの目の上にある小さなコブから出てくる、牛乳のような汁から作られたものです。止血、麻酔、強心などの作用があって、実際、効き目がある薬です。
 現在、筑波山で売っているガマの油は、筑波町北条の山田屋薬局で製造したものです。近代的な方法で作られた油薬で、止血・殺菌に効果があります。
 筑波山名物ガマの油売りの口上はサアーサアー お立合ご用とお急ぎのない方はゆっくりと聞いておいで。
遠出山越え笠のうち、聞かざる時は物の黒白出方善悪がとんと分からない、山寺の鐘がゴーンゴーンと鳴ると言いども、童児来って鐘にしゆもくを当てざればとんとカネの音色がわからない。サテお立合手前ここに取りいだしたるは筑波山名物ガマの油、ガマと申してもただのガマとガマが違う、これより北、北は筑波山のふもとは、おんばこと云う露草をくろうて育った四六のガマ、四六、五六はどこで見分ける。前足の指が4本、後足の指が6本合せて四六のガマ、山中深く分け入って捕いましたるこのガマを四面鏡ばりの箱に入れるときは、ガマはおのが姿の鏡に映るを見て驚き、ターラリターラリと油汗を流す、これをすきとり柳の小枝にて三七、21日間、トローリトローリと煮つめましたるがこのガマの油。
このガマの油の効能は、ひびにあかぎれ、しもやけの妙薬、まだある大の男の七転八倒する虫歯の痛みもぴたりと止る、まだある出痔いぼ痔、はしり痔、はれもの一切、そればかりか刃物の切味を止める。
取り出したるは夏なほ寒き氷のやいば、1枚の紙が2枚、2枚の紙が44枚、4枚の紙が8枚、 8枚の紙が16枚、16枚が30と2枚、32枚が64枚、64枚が一束と28枚ほれこの通り、ふっとちらせば比良の暮雪は雪降りのすがた、これなら名刀も一たびこのガマの油をつける時はたちまち切味が止る、おしてもひいても切れはせぬ。
と云うてもなまくらになったのではない、この様にきれいにふきとるときは元の切味となる。
サーテお立合 この様にガマの油の効能が分かったら遠慮は無用だ、どしどし買って行きやれ。
 昔、雄略天皇の御代に、天竺に旧仲国という国がありました。帝はリンエ大王といい、金色姫という姫がいました。皇后が亡くなり、後添の皇后を迎えましたが、この皇后はとても意地の悪い人で、金色姫のことを憎みました。
そこで、大王の留守に、金色姫を家来に命じて、獣の多い山へ捨てさせました。しかし、獣は姫を拝み、一匹のライオンの背に乗って、姫は御殿に帰ることができました。
 皇后は、ますます姫を憎んで、次は、鷹群山という、鷹や鷲のたくさんいる山へ捨てさせました。ちょうどその頃、帝が兵士に鷹を撃たせにやりました。兵士は山中に姫がいるのに驚き、姫を連れて御殿に戻りました。 
皇后は、今度は姫を海眼山という草木のない島へ流しましたが、今度も姫は、漂着した釣船に助けられました。
腹を立てた皇后は、大王の留守に、城の庭に七尺の深さの穴を掘らせ、無残にも姫を生き埋めにしました。大王は帰って、「姫はどこへ行ったか」とたずねても、誰も知らないと言うので、たいそう嘆きました。
 ある日、庭から、光がさして城を照らしました。大王が不思議に思って、そこを掘らせると、地中に金色姫がいました。
 大王は喜びましたが、すっかりやつれた金色姫を哀れに思って、「これはきっと継母の仕業であろう。このまま、この国にいるよりは、いかなる国へでもながしてやろう」と言いました。そこで、桑の木のうつぼ舟をつくって、泣く泣く姫を舟に乗せ、海上はるかに舟を流しました。
 舟は荒波にゆられ、風に吹かれ、流れ流れて、茨城県筑波の豊浦に漂着しました。ここに、権太夫という漁師がいて、舟を引き上げると、なかに優しい姫が一人いました。
 姫は面やつれして、不憫であったので、権太夫は、家に連れ帰って、姫から一部始終を聞きました。権太夫夫婦はいっそう哀れに思って大事にしましたが、姫はふと病の床についたかと思うと、間もなく亡くなってしまいました。夫婦は嘆いて、清らかな唐びつを作って、姫のなきがらを納めて大切にしていました。
 するとある夜、夢の中で「私に食物をください、後で必ず恩返しをします」と姫がいいます。唐びつを開けてみると、姫のなきがらは水に溶けて、たくさんの小さな虫になっていました。
夫婦は姫への食物として、丸木舟が桑の木であったことから、桑の葉をとって虫に与えると、虫は喜んでこれを食べ、成長しました。
 ある時、この虫たちが桑の葉を食べず、皆一様に頭をあげてワナワナとしています。権太夫夫婦が心配していると、姫が夢にあらわれて、「心配しないで下さい。私が天竺にいた時、継母にさまざまな山へ捨てられ、また庭に埋められた苦しみの耐え難さに、今休眠しているのです」といいました。
最後の「庭の休み」のあと、マユをつくりました。
 マユができると、筑波山の神様が現われて、マユから糸をとることを教えました。ここから、日本で養蚕が始まりました。
 権太夫は、ますますこの業を営んで栄え、豊浦の船つき河岸に新しく御殿をたて、姫の御魂を、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称号しました。これが蚕影山神社のはじめです。







日本最初のホームページ 1992年9月30日 

 日本最初のホームページは、1992年9月30日に茨城県つくば市にある文部省高エネルギー加速器研究機構計算科学センターの森田洋平博士によって発信されました。当時の森田博士の手帳から確認させていただきました。また、上記のサーバー世界地図は、1992年に書かれたティム博士の論文(CERN92−07 21Dcember1992)からのもので当時世界にあったサーバーの位置が記されております。日本の部分には、KEKと記されているのが確認されます。





筑波学園都市

 つくば市内には、縄文・弥生時代の遺跡が多数あります。
縄文時代の中期ごろには、大きな河川に沿って海水が内陸に入り込み、この辺りにも浅い海がありました。市内にはそれを示す田倉貝塚などの貝塚が残っています。
 農耕が伝播してくると権力者が現われます。彼らは大和朝廷と結びついて古墳を作りました。
市内でも約200基ほどの古墳が確認されていますが、県指定遺跡の八幡塚古墳はその代表的なものです。全長91m、6世紀前半に作られた前方後円墳で、阿閉色命(あべしのみこと)の墓と推定されており、近くの八幡池からはまげを結った女性のはにわが見つかっています。
 大化の改新(645年)により、高、久自、仲、新治、筑波、茨城の6国が常陸国として統合され、つくば市はそのうちの筑波郡となります。
市内平沢にはこの筑波郡の役所と推定される遺跡があり、国の史跡に指定されています。また、平沢の近くの北条には、3km四方に及ぶ当時の条理制の遺溝が残っています。さらに、正倉御物の中にみられる筑波郡から納められた麻、万葉集の中の筑波から派遣された防人(さきもり)の歌などからは、当時の律令国家に組み込まれていったこの辺りのようすがうかがえます。
 その後、徐々に律令制が解体していく中で、平将門の乱が起こります。これは10世紀前半、筑波山麓に栄えた平氏一族の内紛に周辺武士の勢力争いがからんだもので、平将門は一族の貞盛に敗れます。
この承久・天慶の乱を契機に武士団が台頭し、やがて中世が幕を開けます。
 つくば市の小田にあった小田城は、鎌倉時代から戦国時代末まで、この地方に勢力を張った小田氏の居城で、特に南北朝時代に南朝方の関東における拠点として名高い。
本丸の周りには数多くの曲輪・土累・堀が複雑に組み合わされ、波紋のように広がっており、全体が本丸防御のための構成であったことがわかる。
鎌倉時代になり、有力御家人宇都宮氏の一族八田知家(はったともいえ)は常陸国の守護職に任じられ、市内の小田に本拠を置きます。
そして八田氏の総領家は小田姓を名乗り、戦国時代に佐竹氏に敗れるまで小田を本拠地としてこの辺りを支配します。
 かつての筑波鉄道小田駅の近くには、今も小田城跡が残っています。本丸部分にはわずかな塚が残るのみですが、堀跡はかなり広範囲に及び、小田氏の勢力の大きさを物語っています。
また、小田城跡から少し離れた山裾には、小田氏の擁護のもとで西大寺系律宗の僧侶忍性(にんしょう)が布教を行った三村山極楽寺の跡があり、ここには関東でも有数の巨大な五輪塔が残されています。 
 さらに寺跡へ至る道沿いには「湯地蔵」といわれる石造地蔵菩薩立像があり、背後の宝鏡山の頂きには県指定文化財となっている宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、どれも当時の律宗の活動と深い関わりがあるといわれています。
 鎌倉時代末に常陸守護職を佐竹氏に奪われた小田氏は、南北朝の戦いが始まると、南朝につきます。
南朝方は旗色悪く、再起をかけて東国に下ってきた北畠親房は小田氏を頼って小田城に身を寄せ、南朝方の武将に決起を促す手紙を書き続けました。しかし援軍は来ず、後醍醐帝も亡くなってしまい、親房は小田城内で「神皇正統記」を執筆します。
 やがて小田氏も持ちこたえられず北朝方に帰順し、北畠氏は関城に落ち伸びていきます。小田氏は足利幕府の御家人となり、城と領地を安堵されました。
 室町時代、関東には上杉禅秀の乱、永亨の乱、結城合戦など戦乱が続き、小田原北条氏と同盟を結んだ小田氏は常陸北部を根拠地としていた佐竹氏に攻められ、手這坂の合戦で敗北し、城を明け渡します。
 佐竹氏は豊臣秀吉によって常陸国大名となり、小田城には梶原政景が入ります。
関ヶ原の戦いの後、佐竹氏は出羽(秋田県)に移され、佐竹氏が築いた水戸は徳川御三家の支配するところとなりました。家康の江戸入府後、茨城地方では目まぐるしく領主が交代し、その支配も藩領、天領、旗本の知行地などが入り乱れていました。
市内では幕府が倒れるまで独立した藩として存続したのは谷田部藩だけです。
 江戸時代、谷田部には飯塚伊賀七という発明家が生まれ、和時計やからくり人形、機械、建築物などを設計して作りました。
あの有名ながまの油」の口上ができたのも、百家竜水万灯祭が始まったのもこの時代です。
 戦国時代に比べれば、乱暴・狼藉・焼き討ちなどが治まり、安定した世の中になって、庶民文化が花開いたといえます。
 利根川や小貝川などの水運が発達し、水戸街道、筑波街道、小張街道、細川街道などが整備され、主な街道には並木が植えられました。
 谷田部地区には当時の松並木が「不動松並木」として残っています。
 江戸時代末期、幕藩体制の経済的行き詰まりに、開国による経済混乱が追い討ちをかけると、尊王壌夷論が高まりを見せます。
なかでも水戸藩氏らは桜田門外の変を起こしただけでなく、元治元年(1861)に筑波山で挙兵し、常総地方一帯を巻き込む「天狗党の乱」を引き起こしました。
 これは水戸藩によって鎮圧されましたが、尊王壌夷運動はしだいに討幕運動に形を変え、やがて幕府は崩壊し明治新政府が成立します。
 明治になると、新政府は徳川家の領地を引き継ぎます。この辺りでは、常陸国内などの旧天領や旗本知行所を管轄する若森県の県庁が現在の大穂地区に置かれました。
さらに明治4年(1871)に廃藩置県が実施され、本市は新治県となり、明治8年(1875)には茨城県に統合されました。
 そして明治22年(1889)に市制・町村制が施行され、現在の市域には筑波町、北条町、田井村、田水山村、小田村、菅間村、作岡村、上郷村、旭村、小野川村、真瀬村、島名村、葛城村、谷田部町、大穂村、栗原村、九重村、栄村などが誕生しました。
 その後、日清日露戦争、第1次世界大戦を経て帝国主義に走った日本は第2次世界大戦に突入します。
 昭和20年(1945)、この戦争で今までにない大きな犠牲を払って敗戦を迎えた日本は、農地解放、日本国憲法の制定など、民主化への道を歩き始めました。
昭和28年(1953)町村合併促進法が成立し、その後前記の町村は筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、桜村の5町村に統合されました。
 昭和38年(1963)、筑波研究学園都市の建設が決定し、筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、桜村、茎崎村に建設することになりました。
 昭和60年(1985)、筑波研究学園都市で科学万博が開催され、昭和62年(1987)11月には大穂町、豊里町、谷田部町、桜村が合併してつくば市が誕生します。翌年1月には筑波町も編入し、水戸市、日立市に次ぐ県下3位の人口を持つ都市となり、現在も発展を続けています。
 昭和60年3月17日〜9月16日までの184日間にわたり、筑波研究学園都市で、「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに総額6,500億円を投じた「科学万博つくば85’」が開催されました。
 開会式では、名誉総裁の皇太子殿下(当時、現天皇陛下)が「ここを訪れる人々は、人間と科学技術のかかわり方についてさらに考えを深められるでしょう」と大会宣言されました。
科学の街つくばで開かれた万博は国内機関によって28のパビリオンが設けられ、海外からも47ケ国、38国際機関が出展するという、世紀の祭典となりました。
 会期中の入場者数も、のべ2,000万人を超え、一日平均11万人という盛況ぶりで、これにより筑波研究学園都市を国の内外に広くPRしたという点でも大きな成果がありました。
 いばらきパビリオンでは、茨城らしさを表現し、筑波山の男体、女体をかたどったパビリオンを建て、館内には学園都市の最先端技術を展示するなど、茨城の今の素顔を紹介しました。
 皇太子殿下(当時、現天皇陛下)ご夫妻もいばらきパビリオンほか、つくば博ををご覧になられ、最新科学を満喫されたようです。