4月の月例会
(2002年)




 4月の第1週の土曜日にレストラン・イーグルで監査会が行われ、行方監査と吉原会長、箭野、小川両会計が提出した帳簿、伝票、領収書、年会費徴収帳などの監査をして頂き一点の指摘もなく終了いたしました。行方監査から厳密な監査の結果、1年間渡り「ご苦労さん」という労いのお言葉と共に決算報告書(案)に認印を捺してもらい、続いて、会長、会計に捺印して頂き私にとって8年間の最後のお勤めも無事に終えホットしました。
 続いて開かれた役員会に報告し、皆さんの賛同を得ました。引き続き次週の総会まで持ち越していた10周年記念大会で遣り残した功労者表彰の人選(川合、斉藤、山崎、箭野)を決め、13日(土)午後6時から行われる総会の式次第や翌日行われる今年度最初の月例会を実行する希望ケ丘カントリークラブでの実施事項に付いて、会長から説明があり、そして、質疑が行われ満場一致で承認され、また、新年度からの年会費の額について事前に会長と話し合い(年会費は7,000円と新たにその都度、参加する人達が毎回1,000円の参加費を負担する)で作った「案」を会計から発表し、幾多の「案」が出されましたが、原案通りに決定しました。
 総会は、いつも通り、式次第に法りスムーズに進み、改選期ではありましたが、会計だけが小川会計に変わり、補佐役として川合、藤山のお二人が引き受けることに決まり、続いて懇親会に入り、乾杯があり、翌日、本コースへ行くという事で「早く切り上げるのかな」と思っていましたが、案に図らず、いつもながらの時間まで和気あいあいと、うちあげパティーのように賑やかな内にお開きとなった。全員で後片付けを済ませて明日に備えた。
 4月には入ると、何処の会も新年度入りし、新しい役員さんのもとで、企画、運営され、また一歩、斬新さが取り入れられて楽しみなものです。
 当会も4月6日監査会及び役員会を開き、会長より新年度の日程、年会費、総会の打合わせ、10周年の功労者への記念品等々の提案があり、出席者11名で真剣に話し合いを行い、また、会計から決算書及び予算案が渡され、今年度から年会費と新に参加費の2本建てという提案と内容説明があり、一同の賛成を得て執行する事に決まりました。
 総会は4月13日(土)午後6時、あおぎり集会所3階洋室で36名の方々が三々五々集まり、出羽邦夫司会者の進行で、

開会あいさつ・中村俊作競技委員長
会長あいさつ・吉原好太郎会長
事業報告   ・中村俊作競技委員長
会計報告   ・箭野 豊会計
事業計画   ・中村俊作競技委員長
予算案    ・箭野 豊会計
監査報告    ・ 行方康之会計監査
閉会あいさつ・矢作照雄庶務幹事
乾杯       ・ 行方康之会計監査
大締め      ・ 川合 昇庶務幹事

 式次第通り、滞りなくスムーズに進み、やがて懇親会に入り、和やかで楽しいひと時を過ごし、明日の本コースに備えて午後8時30分には、流れ解散ということで、後片付けをして、早々に家路に着いた。
 明けて14日は、昨日より引き続きよく晴れて例年似なく暖かくゴルフ日和だった。朝の天気予報では、これから行く、茨城県地方ではやや霧が出て視界が悪いと告げていたが、希望ケ丘カントリークラブの迎えのバスは集合地の日興信用金庫墨田支店前には、午前6時45分にやって来た。出発する頃には、夏の朝のように暑く、冬料金で出来る陽気ではなかった。

茂木町
 
 茂木町は、栃木県の東南部に位置し、茨城県に境を接しています。八溝山系の山間にあり、宇都宮市まで31km、水戸市まで36kmで、国道123号線で結ばれた両市のほぼ中間にあります。東西12km、南北27km、総面積172kuの細長い町です。町の北部を那珂川が流れ、今でも鮎や鮭があがってきます。
 茂木町は、歴史豊かな町で、古くは旧石器時代の遺跡もあります。中世になると、鎌倉幕府の有力御家人八田知家が茂木郡の地頭職に任命され、その子、知基は、今の城山に桔梗城を築き、茂木氏と改め、町の地名の起こりとなりました。
 江戸時代には、細川興元が徳川家康から茂木地方の1万石余りを拝領して大名となったため、27か村が細川藩領となり、その後、明治4年の廃藩置県以後、合併を繰り返し、今の茂木町ができました。

 茂木町は、栃木県の東南端に位置し、八溝山系の豊かな自然の中にあります。
市街部北部の城山に登ると、中央部を流れる逆川と城下町の面影を残している街並みが静かな落ち着きを感じさせてくれます。
 その70%が標高200メートル前後の美しい緑の山々にいだかれたのどかな城下町でもあります。昭和61年8月に、茂木町を襲った台風10号により、町を南北にながれる逆川が大氾濫し、町を一夜のうちにガレキの町に変えてしまいました。あまりの無残な姿に一時は立ち直ることができるだろうかとも言われました。しかし、町民一人ひとりたゆまぬ努力が不可能を可能へと導き、復興へのうねりとなっていきました。
 台風10号は、昭和61年8月4日から5日にかけ、年間雨量の4分の1にあたる328ミリの集中豪雨をたった1日で降らせてしまったのです。
 逆川がいたるところで決壊し、道路は各地で寸断、電話も不通、電気も停電、水も断水、特に市街地では浸水家屋が1,451戸、全体の約70%が水没してしまい、町は一夜にして陸の孤島と化してしまいました。
 被害総額約110億円、死者3人、重軽傷者58人を出す大水害になってしまったのです。町はどこもガレキの山、水の氾濫の勢いで生活用品や商品、自動車まで全てのものが流され、雑多なゴミ、汚泥汚物が一緒くたになってしまい、災害のショックに身をまかせる間もなく、集中豪雨がうそのように晴れ渡った真夏の太陽のもと、気が遠くなるようなゴミの山の片づけが始まりました。
 年の暮れになると町の表情にも落ち着きが戻りました。そういう中、「このままでは町はだめになってしまう」「何とかしなければ」「ふるさとの誇りを取り戻そう」と町民の熱い思いがわき上がってきました。そして、行政も燃えました。それが協働のまちづくりのスタートでした。
 その頃、この大水害の復興事業として逆川の大改修計画がもちあがりました。工事延長約22キロ、川幅が1.5倍、他県者数約600人、移転家屋約150棟、総予算146億円という茂木町にとっては歴史に残る大事業でした。

 我が家は、橋や道路はどうなるんだろうか」「転移によってこの町を離れてしまう人ができるのでは」それぞれの不安が募りました。「どうすれば良いのか」「町民みんなで話し合ったら」と、シンポジウムが開催され、住民と行政が一体となったまちづくりが提唱されました。名付けて「元気アップ茂木事業」「おもしろくなくちゃまちづくりではない」が合言葉でした。
 河川改修をまちづくりの絶好の機会として、「川を元気に」「水を元気に」「商を元気に」の3つの柱をテーマにかかげ、水辺の公園、アメニティーのための親水空間、川辺の演出、河川を親水に取り込んだコミュニティづくり等の事業を、シロウト(町民)の思いつきで、クロウト(行政)が裏付けし、時には予算や法律の壁にぶつかりながら無我夢中でがんばりました。

 また、一方では、栃木県第1号の道の駅である「もてぎプラザ」の賑わいや、ロードコースとオーバルコースを併せ持つ世界初のサーキットでのレース開催や新しいモビリティー文化の発信など、新たな躍動を見せています。
 私たちの生活に密着した水と水辺環境を守るために、昭和63年「もてぎの川をきれいにする基金」を設立し、平成4年には基金の適切な運用について検討及び調整を行い、町内河川の良好な環境の形成と保全を推進するために、「川をきれいにする基金運用委員会」を設置しました。

活動内容は、基金の預金利子を活用し、河川環境保全のために使用するほかに、水質浄化啓蒙のための広報誌、「水とE?関係な、元気なレディの生活情報誌」名付けて「WELL」を年1回発行しています。
 また、「水のことは女性にまかせなさい」と、平成元年に町内婦人の有志、3000人あまりで「もてぎの川をきれいにする婦人の会」が結成され、現在も台所でできる水質浄化のための出前講習会や河川清掃、廃油を利用した石鹸づくり、資源のリサイクル活動等を展開しています。

 さらに地域活性化への取り組みとして、毎年夏に逆川の高水敷(イベント広場)を利用して、町内の小中高生と一般の有志による「吹奏楽の夕べ」が開催され、多くの町民に感動を与えているとともに、音楽に触れ合いながら川(水)に親しむ機会をつくり、水の大切さと河川環境保全の重要性と訴えています。
概  要
  面積    172.71平方キロメートル   
 人口     18,057人  
 男      8,859人  
 女      9,198人  
 世帯数    5,230世帯

希望丘カントリークラブ

コース概要
 女性ゴルファーでも楽にプレーすることができるフラットな丘陵コース。アウトはフェアウェイや
グリーンにアンジュレーションのある面白味あふれるホールが続き、インはオーソドックスなコースレイアウトだが、600ヤードを超えるホールがあるなど、比較的距離の長いコースになっている。周辺のなだらかな山肌を美しく見せる山林(益子県立自然公園に隣接)が美しく、またプレーの
合間に小鳥のさえずる声が聞こえる中でのショットは爽快そのもの。グリーンはベントとコウライのツーグリーン
クラブ案内
 ● 開設:1992年(平成4年)4月。
 ● 経営:(株)成和。
 ● 加盟協会:未加盟。
 ● コース規模:18H*6910Y*P72*112万u。
 ● クルマ:茨城・水戸IC(常磐自動車道)→R50→県道宇都宮笠間線→ゴルフコース。
       26km、35分。
 ● 提携宿泊施設:ホテル秋山0285−65−0845。
 ● クレジット:JCB/UC/VISA他。
 ● バッグ配送:クロネコヤマト。
 ● 練習場:なし。
 ● 所属プロ:なし。
 ● 貸クラブ:2500円(フルセット)。
 ● キャディ:ハウスキャディ40人。
 ● 希望丘CC:芳賀郡茂木町深沢2120・0285(65)0331予約先0285(65)0776
  (火曜日定休)

真岡線は日本で最初のローカル線

 真岡線は日本で最初のローカル線として産声をあげ、多くの人に愛され、たくさんの夢をはこんできました。鉄道院(国鉄の前身)は、開業以来幹線の建設を目的としていましたが、明治43年4月「軽便鉄道法」の公布により、局地的な輸送を担う軽便鉄道の建設を開始しました。明治44年度には、黒石線(青森県)、倉吉線(鳥取県)、湧別線(北海道)、岩内線(北海道)、そして真岡線の5線区を着工しました。その中で、真岡線(下館〜真岡間)は、明治45年4月1日、一番最初に開業を迎えました。つまり、真岡線は、国鉄ローカル線の第1号なのです。
 軽便鉄道法の制定により全国各地で軽便鉄道建設の出願がブームとなりましたが、沿線地域からの資本調達は難しいため、政治的に運動し、国有鉄道として鉄道を建設するという方法が多くとられました。しかし最初に開業した真岡線がそうであったかどうかは不明です。
 『日本鉄道史』は、「鉄道院ハ之カ建設ヲ計画シ明治45年5月下館真岡間10マイル20チェーンノ実測ニ着手シ10月工事ヲ起シ45年4月1日開通シ真岡七井間7哩37鎖ハ同年5月実測ニ着手シ12月工事ヲ起シ大正2年7月11日開通セリ、全線ヲ通シテ勾配110分野1ヲ最急トス、之カ工事ハ東部鉄道管理局ニ於テ主管シタリ」とだけ伝えています。
 鉄道院が当初「真岡軽便線」として計画したのは、下館〜七井間でした。明治45年4月1日に下館〜真岡間が開業し、大正2年7月11日に真岡〜七井間が追って開業し、全線開通となりました。
 その後、烏山町から真岡軽便線の烏山への延長が陳情され、大正5年12月衆議院において、七井から烏山を経て大子に至る軽便鉄道敷設が採択され、七井から北へ路線延長されることになりました。これに対し、路線からはずれる茂木町から同鉄道の茂木経由の請願が提出され、烏山と茂木で真岡線の誘致合戦が展開されました。
 この論議で揺れていた大正7年に衆議院選挙があり、当時憲政会の地盤であった茂木町に対し、政友会から真岡軽便線の茂木延長に協力するという話しがありました。そして、投票の結果、政友会の議員が当選し、翌8年に政友会の勢力により、七井〜茂木間が鉄道敷設予定線になり、大正9年12月5日に、七井〜茂木間が開業し、真岡軽便線に編入されました。
 その後昭和12年に、長倉までの延長計画が着工されましたが、戦況の悪化により、資材の撤去が行われ、現在に至っています。今でも、茂木〜河井間には、路盤、橋梁等が残されています。
 昭和35年国鉄関東支社評議委員会において真岡線廃止の決定がなされました。これに対し、真岡線廃止反対期成同盟会を結成し存続運動を続けてきましたが、昭和57年の輸送密度は、1461人にまで減少し、同年国鉄再建促進特別措置法に基づく第二次特定地方交通線に選定され、昭和59年6月廃止路線として承認されました。
 しかし、真岡線を利用する高校生が多数おり、定時性を有する鉄道は、これら生徒の唯一の交通手段となっています。また沿線の工業団地、住宅団地の建設等に伴い、その重要性が高まってくると考えられます。このような状況から、昭和62年1月に開催された第6回真岡線特定地方交通線対策協議会において、栃木県、沿線市町村、民間企業等の出資による第3セクター方式により、鉄道路線として存続させることが決定しました。そして、昭和63年4月11日、真岡線は新たに「真岡鐵道株式会社」として生まれ変わりました。